水上文「狭間の沈黙」——沈黙の中の揺動と体温

すばる2024年6月号掲載の水上文さんのロングエッセイ『狭間の沈黙』、本当にすばらしかった。何度も何度も読み返し、いろんな人にその話をした。

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水上さんはエッセイの中でみずからのクィアネスと、そのことについて母親との間にある緊張と沈黙のことを語っている。

 

他者を”理解”することなど本当にできるのか? と思うようなことが日々たくさん起きている。現実を前に、わたしたちは「黙り込んで」しまうこともしばしばだ。

しかし、エッセイの結びにある「けれども理解と拒絶の二分法の狭間に、数多くの沈黙があると思いたかった。」「沈黙の先に何かがあるとも思いたかった。」という言葉に、本当に励まされた。

 

水上さんが母親に「入門書を渡すことも考えたけれど、私は文学に賭けた。」というくだりも、わたしが作家として物語を書いている理由の一つに近く、読んでいて震えた。わたしも誰かが自分の想いを賭けられるような物語が書けたらな、という気持ちが湧いてきた。

 

「実のところ重要なのはコミュニティ」という言葉にも、何度もうなずいた。水上さんとわたしの背景は異なるけれど、わたしもそうだと日々感じている。「痛み」を通して、既にこの現実にいる人たちとつながること。

 

また、エッセイの舞台となるのは創作料理の店で、「山椒の味がするクラフトビールを飲みながら」母親との対話がなされた。話を切り出す際にビールの味で「もつれがちな舌がほぐれ」たとある。

水上さんのそばにいて、沈黙から切り出すための味方となるお酒としてクラフトビールが選ばれていることが、わたしにはとても嬉しかった。

 

苦しい現実は続くけれど、”理解”の前に、「世の中は変わる、変わり得る」ことだってある。

それは同性婚が法制化されていないことを違憲状態とする判決であり、誰かに本を渡すこと、そして渡された本のページをめくることである。

黙り込んでいる人がいても、心の中で揺れ動きながら起きている変化もきっとある。

そのことをエッセイから切に感じた。

そしてそれは、はっきりと見てとれるような希望の光ではないが、触れてみればたしかにそこにあるあたたかさだと思った。